「穴太衆」(あのうしゅう)。
彼らが岡山に来るという情報を以前より聞いていたので、見に行くチャンスをずっと伺っていた。
なんとか2時間ほど時間を作ることができたので、邑久町の餘慶寺まで車を走らせた。
残念ながら、職人は午前中で帰ったらしいが、
最中の仕事を「間近でこの目で」見る事ができたので、勉強になった。
「大窪の家」の門柱の答え合わせもできたので、密かに「ホッ」と胸をなで下ろしたところだ。
あと、驚いたことによく見ると、ここで使われている石は、
「大窪石にとてもよく似た花崗岩」であった事だ。
どこから運んできたのだろうか?
彼らの功績は、安土城・彦根城・(天空の城)竹田城・津山城など、日本の歴史と共に多々ある。
近年、熊本地震で崩壊した「熊本城の石垣」の復旧工事にも、彼らが招集されたことは有名な話だ。
驚くなかれ、彼らが得意とする「野面積み」は、
京都大学で実験した「コンクリート造の擁壁」vs.「穴太衆の石垣」では、
なんと200tの負荷時に先にコンクリート造にヒビが入り、
更に230t負荷時ではコンクリート造の破壊の可能性がある、という事で実験を中止した経緯がある。
あと面白いのは、
「大阪・夏の陣」で徳川家康に挑み、真田幸村と共に戦場で散ったあの猛将「後藤又兵衛」が、
穴太衆の祖の一人というのは本当なのだろうか?
もしそうであるなら、ロマンだ。
by 安藤洋介