最愛の父。

 

丘の上の平屋プロジェクト、合計800人工。

今までで最も苦しい戦いでした。

いつも通り(最上質で完成させるために)木工事のほぼ全てを私自身が手掛け、

建築設計はもとより、造園工事についても自分のこの手で造り上げました。

 

 

そうして、1年と半年の時間を費やした大きなプロジェクトがもう少しで完了しつつあります。

後は、幾つかの工事と、写真撮影とお引き渡しを待つだけとなりました。

大きな責任を果たすことができた安堵感と、もうすでに次の現場も始動しており新たな責任感の重責を感じておる毎日です。

 

 

何がこの期間、そんなに苦しかったのか。。

安藤工務店の応援団長であった最愛の父が、この期間にちょうど病魔との戦いが始まり、5月10日朝6時に亡くなったこと、そして、その苦しさを背負いながら日々プロジェクトの完成に向けて動かねばならぬことでした。

責任を果たすまでは誰にも言わないと決め、ここまで頑張ってきました。

 

病院の厳しいコロナ対応で、父とは亡くなる1週間前からしか会えず、その間はラインと、インスタを通しての私の現場報告、そして父からの「良いね」だけが頼りでした。

 

この父からの「良いね」が私をどれだけ支えてくれたか・・。

 

 

工事期間中、私は父に、

現場で美しく鳴くホトトギスを録画してラインで画像を送ったり、

(父が若かりし頃に出会い、一緒に仕事をし、そして父が生涯尊敬し続けた)両備グループの小嶋光信CEO様にお手紙を出したり、

父が好きだった司馬遼太郎を追いかけて淡路島に行き、菜の花の沖や播磨灘物語の作品に出てくる播磨灘の砂浜から大海原の映像を送ったり・・。

 

大好きだった父へ想いを送りました。

それは、父がいつも苦しいとき私の背中を押してくれたから。

父への恩を少しでも返したかったから。

 

 

そうしていると3月初旬、病室の父へ1本の電話が鳴りました。

小嶋光信さまからの励ましのお電話でした。

小嶋さんが父に「安藤君の声を聞いたら安心したよ。もう大丈夫や。人は簡単に死なんのや」と言ってくれたそうです。

その電話を切った後、(現場にいる私に)父から電話がありました。

「洋介ありがとうな。小嶋さんと話しをしとったらな何故か涙が止まらんかったんや。

小嶋さんはどこかしら(父が大好きだった)大原總一郞と似てるね」と。

 

御年78歳の小嶋さんと76歳の父が見せてくれた友情に、私は現場で涙が止まりませんでした。

 

 

小嶋さまと父は、若かりし頃、今でも小中学や公共の図書館に配布されている、岡山の偉人たちの本を作っています。

広告代理店を経営していた父は現役の頃、「数字を追うのも良いけれど、小嶋さんと出会ってから、意味のある仕事をしなければいけないと思ったんや」と言っていました。

 

 

「この建築も完成したら絶対に見てな!」と父に言い、父も「頑張るよ」と言ってくれていました。

このラインのやりとりは何度もしました。

 

 

今でも、毎日父に会いたいと思っています。

俳優みたく男前でいつも颯爽としていて、

引退してもなおジャケットが似合う、

最後の最後まで前向きな父が大好きでした。

クラシック音楽が大好きだった父と(亡くなる数日前から)一緒に何度も聴いた「力バレリア・ルスティカーナ間奏曲」が忘れられません。

今でもこの曲を聴くと、当時気持ちは苦しかったけれど、病室で父と一緒にいられたあの幸せな時間を思い出し涙してしまいます。

 

 

四十九日を終え小嶋光信さまへご報告をすると、大変ご丁重なお手紙とお線香をいただきました。

私は、このお線香を持って父のお墓へ行っています。

今日も猛暑で、「お父さんちょっと暑いな」とボヤきながらお線香に火をつけていると、

少し雲が陰ってきて、気持ちの良い風が流れてきました。

おかげで15分ほど居れて色々と父に報告ができました。

 

 

亡くなる直前に父が、「洋介は私の誇りや」と言ってくれました。

最後の最後まで父がそうだったように、いつも前向きな姿勢でこれからも頑張っていきたいと思っています。

 

 

by 安藤洋介